昭和51年 月日不明 1 タイトル不明 テープNo.51-060

中村良一


椛目の宮崎さん達夫婦が、朝参りに、昼の御祈念に参り、また、夜の御祈念も参られるという様に、まぁ熱心にお参りをしておられます。もう本当に、どうしてこげな風に有難く、今まで頂けなかっただろうかと言う訳なんですけれどもね。いつも、朝の御祈念に参って見える時、今日は、目を覚ました時が、もう六時じゃったげな。それじゃ、もう、御祈念も何も頂かれないけれども。まぁそれから参って見えて、もう本当にもう、自分の信心の一心が足らない証拠と思うて、まぁ心を重く参ってきたら、あの事務所ででしょう。末永先生が、今日は私は、もう御祈念の時です、もう眠ってしもうちから、もう御理解も何も、なーにもあの、どげな御理解じゃったか分からじゃったて。けれども、神様が、本当にまぁ、御祈念中にでも熟睡させて頂いて有難いというて、お礼を申し上げたと言うて、お話を聞かせて貰うてね。あの救われた気がしましたと言うておられます。
信心には、そういう、例えば、ちょっとした、その話を聞いたと言うだけで、あの、または、自分の思い方を、ちょっと変えただけで救われる。心が重たい、それが心が軽くなると言う、ね。こりゃまぁ、私が、あの椛目の早々の時分でしたけれど。もう食事が、あの、なんか、見ただけでも、こう、むーっとするぐらいに、その、何時もお腹が一杯にあるような感じがするんですよ。ほんに、つい、この頃までは、お粥さん一食が、二年間も続いて、もうお粥さん一杯頂く時に、あくる日の事が楽しみになるごたった。ね。もう本当ですばい。もう、わくわくして頂かせて貰った。けども、もし、一碗ですから、お粥さん一碗です。それで、また、明日の今頃になると、また頂かれると思うてから、一日前から、楽しいごたる時代が、ついこの頃じゃったのに、この頃は、食べ物見てから、例えば、むーっとするぐらいに、何時も腹いっぱいに頂けとるという事がね。有難いと思われたら、あの、本当になんか、心が、げすっとした様なおかげを頂いた事があるんですがね。思い方です。だから、宗教には、そういう一つの、救いというものがあります。けれども、金光教の信心は、それに助かりが伴うという事です。ね。だから、助かりが伴うことの為には、この今日の御理解じゃないけれども、もう一つ、あの奥のほうへ行かにゃいけない。
先ほど、秋山さんが、夕べ、今日は日曜で、お父さんが、大分支部のほうへおかげ頂く。それで、お父さんが一人、おかげ頂くから、もう自分なもう、お参りせんつもりじゃったばってん。色々考えよったら、ほんにあの、合楽の御比礼と思うたら、一人でも、やっぱり、往復行かにゃいけんと思うて、風邪具合もあるし、何日も風呂は入っとらんから、改めて、神様にお願いをしてお風呂を頂いた。そして、神様、清めさせて頂きますと言うて、お風呂に入らせて頂いたら、かえって風邪がすっきり致しておりますというお届けがありました。これは助かりですよね。ね。もう、ただ、心が救われたじゃなくて、もう身体まで、おかげ頂いた。如何にあの、清めるという事、清めさせて頂きますと。汚れた身体で、明日は、大祭にお参りするのじゃ相すまんから、風邪具合が悪いのだけれども、清めさせて頂きますという、その事に、神様が、私は、感応ましましたんだと思うですね。それに、あの、普通で言うならば、風邪引いて、かえって風邪がうち返ったとか、悪くなったとか言うのに、反対に、すっきりして、おかげ頂いておるという事。同時に、今日、親先生の御理解の中に、あの支部の大祭が、合楽の御比礼だという事を頂いて、はぁ自分はその、合楽の生き方に、こうして、添うて居るんだという事を実感したと言う訳ですね。
あの、さっきから、田中さんじゃなかばってん。今日はあんた、こうやっておかげ頂くじゃろうもんと、私が言うたら、それがと言う訳です。それが、本当にもう、有り難うして、有り難うち言うが、信心の初心の時に、信心が有難い時には、もうどこにでん、ここにでん、我武者羅にでん行こうごたった。ところが、信心が、少し分かりだしたら、今度はあの、お世話になりげ行くごたるけんでと言う気がした。だから、そこを、もういっちょ抜けると、そげなこつなんか、なくなって来るでしょうかね。お世話になるとか何とか。とにかく、あの合楽の御比礼と思うたら行かにゃおれない。そこに、私は、助かりがあるように思うのです。やっぱ、一つの過程というものを突き抜けるという事がね。
ほんなら、今日、宮崎さんの、今日は朝の、何時も四時過ぎには参って見えるとに、今日は二時間も、その余計に寝てしもうて、しかも、夫婦とも眠ってしもうとった。それでもう、本当に、自分の一心が足りんと、こう一生懸命に思うた時には、心が苦しかった。けれども、末永先生の話を聞いて、心が救われた。こりゃ、心が救われただけで、助かりには繋がらない。その救われたと同時にです。やはり、一心が足りんのじゃと、一段と信心を、明日は、こんな事がありません様にという様な願いが持たれるところに、助かりが繋がると思うですよね。救いと助かり。これがやはり、金光教の場合には、はっきりしておりますね。もう生に助かっていく。じかに助かっていく。それが伴わなければ、生きた宗教とは言えないと思うですね。どうぞ。